「人それぞれ」の致命的な欠陥
2018/02/12
「○○は人それぞれ」
正直言うと、ぼくはこの言葉をできるだけ使いたくない。
確かに物事には人それぞれな面があると思う。というかほとんどはそうだ。
どんな相手でもどんな時でも常に正しいものをぼくは知らない。
でも「正解が分からないこと」がそのまま「正解が無いこと」にはならない。今正しさを証明できないことが、正しさが無いことの証明にはならない。
宇宙人がいることを証明できないからといって宇宙人がいないことにはできないように。
自分でいくら考えても答えがでないのは、答えが存在しないのではなく単に無知なだけかもしれない。
ふと思うのは「もし今まで人類がそういうスタンスで生きていたら、まだ洞窟の中とかで生活してたかもしれないんじゃないか」ということ。
「木をこするとさぁ…なんか赤くて熱いヤツが出たんだけど、これ使えば便利じゃない?」「人それぞれじゃね?」
「みんな仲間は殺さない方がいいんじゃない?」「人それぞれじゃね?」
「みんなでこれを1って数えることにしたら何かスムーズにならない?」「人それぞれじゃね?」
「このリンゴって赤いヤツ甘いよね?」「人それぞれじゃね?」
こんな感じで共通の土台は何もなく、何一つ積み上げることはできない。
全ては個々人の中に閉じ込められ、技術も知識も文化も未来永劫発展することがない。
さらに致命的なのは「人それぞれじゃね思考」(相対主義)が根深い人ほど、それに対する反論が届きにくくなることだ。
彼らは否定はしないが理解もしない。
何を言っても「人それぞれじゃね?」という言葉一つで終わらせれるからだ。
これは悟っているんだろうか。「分からない」を単に言い換えただけじゃないんだろうか。
実はこの相対主義にとても似ているものがある。
絶対主義だ。周りの意見に聞く耳を持たず、一つ事が真理だとリピートし続けるあれとよく似ている。ほぼ同じと言ってもいい。
対極だと思われがちだし見かけは全然違うが、相対主義も絶対主義もその中身は全く同じだ。
彼らは完結しているのだ。
彼らは真理を見たと思っているのだ。
真理を見ているのが自分の外なのか中なのかというポジションくらいしか違いはない。
ちょっと考えてみて欲しい。
もし仮に全てが相対的で何も決まっているものがないとすれば、毎回リンゴが木から落ちるのも毎回スイッチを押せば電子レンジが動いてものが暖まるのも不自然じゃないだろうか?
たまにリンゴが空に向かって飛んでくとか人によっては電子レンジを使った時にものが冷たくなるとかいうカオスだったらそんなことは言えないんだけど。
ちょっと考えてみて欲しい。
もし結局全て自分の価値観次第なのだとすれば、ケーキを食べ時に甘いと感じる人ばかりなのもお腹がすいたらご飯がおいしく感じる人ばかりなのもおかしくないだろうか?
腹が減ったら逆に食欲がなくなる人やケーキを辛いと言う人をちょくちょく見るのならそんなことは言えないんだけど。
そこにはある程度の”決まりごと”があるように見えないだろうか?
誤解しないでほしい。あるに決っていると言っているわけじゃない。
あると考えるほうが”妥当”だということだ。
これまで積み上げられてきたものが完全に正しいとは言い切れない。
最初に言った通りその正しさを完全に証明できないのだから、今のところどんなものでも疑いの余地はある。
しかし神さまと答え合わせができなくても「この方程式…かなりイケるんじゃね?正解じゃね?」という正解(暫定)(仮)をちょっとずつ積み上げてきたからこそ、ぼくらは今の技術、今の社会、今の生活の上にあるわけで。
そしてリンゴが毎回同じように木から落ちる時、ぼくらはその正しさのぼんやりとした輪郭を見るのだ。
言い切れるかどうかは別として。