結婚と、誠実さと
あさえさんのこの記事があまりにも赤裸々な内容で、なにか触発されたので久しぶりに雑記をつらつらと書いてみようと思う。
人様の恋愛について部外者がうんぬんするなんていうのはたぶん世の中で一番下世話というか不躾な話なんじゃないかという気もするのだけれど、そしてこの記事の内容自体がすごく角が立ちそうな感じなのだけれど、それを踏まえた上で書こうと思う
誠実である、ということは大事である。
問題はそれを確かめにくいことだ。
もちろん相手の言っていることとやっていることが明らかに違えば「あぁ、この人は嘘ついてるな」と簡単に分かるのだけれど、実際そこまで支離滅裂な人はめったにいなくて、だいたいの人は「言っていることとやっている事が違うんじゃないかって疑問もあるけど相手の言い分を聞けば断言はできない」という感じになることが多い。
そもそも1+1=2みたいな数学的な問題とかじゃない限り、だいたいの主張はいくらでも議論ができてはっきりと決着はつかない。
つまり、相手の言っていることが本心なのか言い訳なのかはふつうは分からない、という話である。
ただ当の本人はよく分かっている。
言った後心のなかで
「(あぁ……これは言い訳だなぁ)」
とひっそりと感じるのだ。しかし他人には心のうちは分からないのでそこで裁かれようがないこともよく知っている。
ある部分については本心だけど、ある部分については言い訳というパターンもあるかもしれない。というかそのパターンが多いんじゃないだろうか。恥ずかしながらぼくもよくやってしまう
閑話休題。
件の記事を読んで一番引っかかったことは、「結婚してもいい」という話だ。
あさえさんが言うように、結婚に限らず一般的には大事なことであればあるほど「してもいい」という受け身の姿勢にはなりにくい。
車にこだわりがあればあるほど、「この車でもいい」という言葉はでてこなくなる。
カレーが大好きであればあるほど、「このカレーでもいい」という言葉はでてこなくなる。
結婚というのがもしその人にとって大事なことであるなら、「してもいい」という言葉は決してでてこないはずである。
そういえばAimerさんがある曲でこう歌っていた。
投げ捨てられる正しさなら 消える事のない間違いの方が良い
たぶん結婚もそういうことなんじゃないかと思う。
もちろん個々人の価値観や状況によって答えは変わりうるので決して断言はできない。はっきりとは分からない。
でもその曖昧さのなかで必死に目を凝らす時、ぼくらはその答えのぼんやりとした輪郭を見るのだ。