ぼくらの研究

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村山聖の映画

      2017/02/26

将棋

今は亡きプロ棋士村山聖の半生を描いた映画、「聖の青春」。

松山ケンイチさんがいま撮っているところらしいけど、役作りのために20キロ太ったらしい。かなりの意気込みだ。

KADOKAWAの会長も叡王戦のとかで作品に力を入れていると公言している。(そういえば最近は3月のライオンの映画化が決まったりして将棋自体の注目度があがってるような感じ)

ちなみに原作は大崎善生さんの小説で、マンガ化もされている。

原作者の大崎さんが言うとおり、主演の松山ケンイチさんは実際村山聖本人によく似ている気がする。

 

 

村山聖という人物

まぁかんたんな略歴とかはWikipediaでも見ればだいたい掴めるはず。

多くの人がこの村山聖という人物に心動かされているのが分かる。

ぼくの大好きなマンガ、3月のライオンに出てくる二海堂晴信のモデルとされているし、月下の棋士とかでもモデルとされている人物がいるらしい。

劇的な人生だと思う。陳腐な言い方だけど。

というか陳腐なことしか言えない。彼に会ったことはないし、動画などの記録で残っているものも多くないから。

ドキュメンタリー映像を見ても序盤はピンとくるものがなかった。人間味を感じなかった。見栄えの良い部分だけをとり上げられているような印象を受けた。(マンガの方は終始そんな印象)

 

でも師匠に少女漫画を買うようにお使いを頼んだりしたエピソードや、17才でプロ入りを果たした時の三千冊の少女漫画に囲まれている写真を見て、それはなくなった。

人一倍、いろんなことに憧れがあったんだと思う。

彼の口癖だったらしい

名人になって早く将棋をやめたい

という言葉はいろんなところでご高説されているような将棋にかける思い、一局に対する真剣さというのもあるかもしれないけど、何か逃げ出したい、開放されたいという思いの方が強く感じる。じゃなかったらこういう言葉にはならないんじゃないだろうか。

だから、やはり、いろんなところで言われているように、「将棋しかなかったんだろうなぁ」と思った。選択肢が限られていたからこそあの戦績を出せたのかもしれない。同時に他の選択を選べないながらも渇望していたのかもしれない。

とかなんとか思いながらドキュメンタリーを見てたら実際そんな感じのことを言っていた。

じょじょに人間味を感じながらも、特に印象的だったのは

1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表。森は「1年休んだら弱くなるぞ」と言ったが、村山は「命のほうが大事ですから」と答え、森は「変わったな」と思ったという。

というエピソードだ。これは聞いたときにぼくは思った。

まるで二海堂晴信の

潔いのと投げやりなのは違うんだ

というセリフそのままだなぁ、と。

身を粉にするような生き方は投げやりなのか、それとも潔いのか。

命を大事にするのか弱気なのか、それとも……