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世界を覆うことができなくなった著作権という過去のルール

      2015/10/16

著作権

 

最近ロゴがパクリだとかパクってないとか著作権的にはどうだとかいう話をよく聞くので、今回は著作権に関しての記事。

「世界を覆うことができなくなった著作権という過去のルール」と題して、著作権の現状と今後がどうなっていくかを書いてみよう。

 

 

著作権の本質とは結局、「真似をどれだけ許容するか」という話だと思う。

真似る、コピーするというのは、コピー元の価値を限りなく0に近づけていく。

昔、デジタルデータのやり取りが未発達だった時は1コンテンツの生産に大きなコストと時間が必要だった。その状態でコピーされたら、生産者が手塩にかけてつくったものの価値が一瞬で激減する。生産者は完全に骨折り損。これでは生産者の生産するモチベーションが無くなってしまう。作ってもすぐ盗まれてしまうからだ。

だから、こうしたことによって生産が止まったりしないように、「真似するのは禁止」だとか「真似た場合の利益は元々の生産者に帰属するべきだ」という生産者保護のルールを作った。
これが著作権である。

「基本的に真似は許されず、真似た場合は対価を支払うこと」

これがこれまで世界にしかれてきたルールである。

 

 

だが世界は変わった。

 

クリス・アンダーソンの

“デジタル化できるものは、FREEになりたがる”

という言葉にあるように、テクノロジーの発達とそれに伴う急速なIT化により、どんなにクオリティーの高いコンテンツでもその真似(コピー)がノータイムゼロコストで、誰にでもできるようになったのだ。

これによりこれまで世界にしかれていた著作権というルールではこの膨大なコンテンツの膨張、流動を網羅しきれなくなった。さらに言うなら、そうして今なお増え続けている著作物全てを把握し、照合するというのは究極的な無理難題になった。つまりこのルールがこの世界に合わなくなってきたのだ。

人は易き方に流れる。

ダメだと言われても、一瞬でそしてタダでコピーできるのだから誰かはしてしまう。そういえば友達のあいつもコピーしてたなぁ。身の回りで誰かが捕まったという話は効かないし、自分も……という流れである。

 

もちろんそれでもこの理想を掲げ続けることは可能だ、可能だ………が決して実現しない。どんなに監視の目を光らせても70億の人間のコピーの連鎖を把握することはできないだろう。少なくても今の技術では不可能だ。

 

端的に例えるなら、著作権法の現状は自動車の交通安全の現状に似ている。

法律上は法定速度を少しでもオーバーすれば逮捕されるが、実際問題だいたいの車は法定速度を多少オーバーして走っている。そしてドライバーはそれで問題ないと思っている。捕まらないと思っているからだ。

これをルールに則り、法定速度を少しでもオーバーした車を必ず捕まえようとするなら警察官の数を人口の50%にし、日夜交通安全につとめ、全ての道路に速度検知器を設置することになるだろうか。だがそれは現実的ではない。

そう、著作権法は現実的ではないのだ。現実に即していない。

つまり建前的な理想の是非はともかくとして、現在この世界は「真似」される世界ということだ。

誤解してほしくないが、真似することが絶対的に正しいと言っているわけでも、それを助長することが絶対的に正しいと言っているわけでもない。(かといって絶対的に悪いと言っているわけでもない) だがぼくらの立ち回りとしては真似されるということを前提としたものにしていかなければいけないだろう。

これ以上ここで深く掘り下げることはしないが、大事なのは自分のコンテンツもコピーされることを覚悟する必要があるということ。

 

 

何かこの現実を変えるような画期的な技術が発明されない限り、コピーの連鎖はこのまま加速していく。そのうち、現実に理想が折れる形で

「そもそも、コピーを規制することは正しいことなのか?」
「既得権益を作って世界を硬直化させているだけではないのか?」
「全てのコンテンツをみなが公平に扱える方がいいのではないか?」
「今までの全ての創作物に配慮するなんて不可能だ。可能だとしても手間とコストの問題がある。それは新しい創作を阻害するだけではないか?」
「真似し、真似され、誰もコンテンツを独占しない方が正しい在り方ではないか?」

という声が目立ってくるかもしれない。なし崩し的な展開ではあるが。(その是非もここで深堀りすることはやめにする)

 

善いか悪いかは別として、今の世界そして恐らくこれからの世界というのはコピーしコピーされる世界である。これまで世界を覆ってきた著作権というルールは今、変化を求められている。