コンテンツイズノットキング
【注:今回の記事はである調に加えて、かなり詩的に書いてます。】
巷で言われている「コンテンツイズキング」というもの。
あれは嘘だ。
コンテンツはそんな確かなものじゃない。
「コンテンツ」というのは形として世に出した瞬間にその価値が0へ向かい始める。
情報がノータイムノーコストでそのままコピーできる現代においては、情報としてすでにまとまっている「コンテンツ」というものはどうしてもその価値を保持できないからだ。
形式化できるもの、データ化できるもの、言葉にして説明できるものは基本的にこの流れから逃れることはできない。
Ctrl + C でお終いだ。
※ここで納得できない場合はクリス・アンダーソン(Chris Anderson)のFREEという著作のチェックを。著作権の話も含む。ここで長々と書くとまとまりがなくなるのでご容赦。
だから「良いコンテンツがあれば評価してもらえる。コンテンツにかけるのが一番間違いない。」というのは嘘だ。
むしろ最も危うい。
誰でも簡単にそのコンテンツと同じものをコピーできるわけだから。0円かつ一瞬で。
王、というものに何より必要なのはその玉座に座り続けられることだ。
どんなに力があっても、絶えず脅威にさらされているような危うさではその玉座に安座することはできない。簒奪者が王として余生を過ごせた試しがないように。
Contents is not King.
ではいったい何がキングなのか。
Context is King
コンテクスト イズ キング。
ぼくはそう思う。
コンテクストを一つの日本語で表せるようなうまいものは今のところ見当たらないが、ざっくりとは「背景」と言っていい。
コンテンツが言っている内容なら、コンテクストはその背景全てだ。そこには人となりやこれまでしてきた事などあらゆることが含まれる。
なんだかとってもぼんやりしている。
当然だ。
これがこう、とはっきり説明できるようなものならさっき言った通り、コピーされて終わりだからだ。
形式化できない。データ化できない。言葉にできない。
そういうものがあってようやく、ぼくらはゆったりとその場所に居座ることができる。そこが玉座かどうかははっきりとは言えないが、少なくてもコンテンツの力ではできないことだ。
もちろんコンテンツがコンテクストを作っていく側面があるので、これは両輪、セットだ。
コンテンツだけの状態も、コンテクストだけの状態は実際にはありえない。
問題はそのセットの作り方。
コンテクストとして豪華なものがあっても、良いコンテンツでないなら価値を認められないし、良いコンテンツでも、コンテクストが乏しかったり合ってなかったりしたらこれも価値を認められることはない。
キングとセットという意味ではコンテンツはクイーンと言えるかもしれない。
Contents is Queen.
だが繰り返すようにキングはコンテンツではない、コンテクストだ。
そしてこれからそのコンテクストが大事になってくる、そう思う。