ぼくらの勉強

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「人それぞれ」の致命的な欠陥

      2016/04/13

 

ちまたでよく使われている決めゼリフ。

「○○は人それぞれ」

正直言うと、ぼくはこの言葉をできるだけ使いたくない。

 

確かに物事には人それぞれな面があると思う。というかほとんどはそうだ。

どんな相手でもどんな時でも常に正しいものをぼくは知らない。

でも「正解が分からないこと」がそのまま「正解が無いこと」にはならない。今正しさを証明できないことが、正しさが無いことの証明にはならない。

宇宙人がいることを証明できないからといって宇宙人がいないことにはできないように。

自分でいくら考えても答えがでないのは、答えが存在しないのではなく単に無知なだけかもしれない。

 

思うのは「もし仮に今までの人類がそういうスタンスで生きていたら、まだ洞窟の中とかで生活してたかもしれない」ということ。

 

「木をこするとさぁ…なんか赤くて熱いヤツが出たんだけど、これ使えば便利じゃない?」「人それぞれじゃね?」

「みんな仲間は殺さない方がいいんじゃない?」「人それぞれじゃね?」

「みんなでこれを1って数えることにしたら何かスムーズにならない?」「人それぞれじゃね?」

「このリンゴって赤いヤツ甘いよね?」「人それぞれじゃね?」

 

みたいな感じで共通の土台は何もなく、何一つ積み上げることはできない。全ては個々人の中に閉じ込められ、技術も知識も文化も未来永劫発展することがない。

 

致命的なのは「人それぞれじゃね思考」(相対主義)が根深い人ほど、それに対する反論が届きにくくなることだ。

彼らは否定はしないが理解もしない。

何を言っても「人それぞれじゃね?」という言葉一つで終わらせれるからだ。

それは悟っているのだろうか。それとも「分からない」を単に言い換えただけなのだろうか。

 

そしてこれは聞く耳を持たず、自分の主張のみをリピートするアレ……「これが絶対正しい思考」(絶対主義)と似ている。

というかほぼ同じだ。

対極に見られがちだし、見かけは全然違うけど相対主義も絶対主義もその中身は全く同じなのだ。

 

彼らは完結しているのだ。

彼らは真理を見たと思っているのだ。

真理を見ているのが自分の外なのか中なのかというポジションくらいしか違いはない。

 

 

ちょっと考えてみて欲しい。

もし仮に全てが相対的で何も決まっているものがないとすれば、毎回リンゴが木から落ちるのも毎回スイッチを押せば電子レンジが動いてものが暖まるのも不自然じゃないだろうか?

たまにリンゴが空に向かって飛んでくとか人によっては電子レンジを使った時にものが冷たくなるとかいうカオスだったらそんなことは言えないけど。

 

ちょっと考えてみて欲しい。

もし結局全て自分の価値観次第なのだとすれば、ケーキを食べ時に甘いと感じる人ばかりなのもお腹がすいたらご飯がおいしく感じる人ばかりなのもおかしくないだろうか?

腹が減ったら逆に食欲がなくなる人やケーキを辛いと言う人をちょくちょく見るのならそんなことは言えないけど。

 

そこにはある程度の”決まりごと”があるように見えないだろうか?

 

 

誤解しないでほしい。それがあるに決っていると言っているわけではない。

あると考えるほうが”妥当”だということだ。

 

 

これまで積み上げられてきたものが完全に正しいとは言い切れない。

最初に言った通りその正しさを完全に証明できないのだから、今のところどんなものでも疑いの余地はある。

でも神さまと答え合わせができなくても「これ…かなりイケるんじゃね?正解じゃね?」という自信作(仮)、正解(仮)をちょっとずつ積み上げてきたからこそ、ぼくらは今の技術、今の社会、今の生活の上にあるわけで。

 

そしてリンゴが毎回同じように木から落ちる時、ぼくらはその正しさのぼんやりとした輪郭を見るのだ。

証明できるかどうかは別として。

 - 雑記