森博嗣「イデアの影」を読んだ感想
3連休に備えて森博嗣の本を4つも買ってしまった。
そのうちの1冊「イデアの影」ををさきほど読み終わったので感想を。
ちなみにこの記事ここではストーリー上の具体的な展開について触れない。いわゆるネタバレ無し。
※ただその範囲内で引用することはある。
本のタイトルにもある”イデア”というのは十中八九プラトンのいう”イデア”のことだろう。
実際それを別の角度から森博嗣らしく詩的に表現したものもあった。
「僕は、ここにはいない。ただ、ここにいるように、貴女が感じているだけ」
「そうかしら。ええ、たしかに。姿は見えないわ。でも、影が映っている」
「貴女も映っている」
彼の影はベッドに座り、彼女の影に寄り添った。顔を近づくのがわかった。しかし、実体はない。手を伸ばしても、触れるものもない。なにも感じなかった。
(中略)
「貴女の心が拒絶しているだけです。ご覧なさい。影が見えるでしょう?」
「あれは、なにかのまやかしです」
「いいえ、あれが現実。貴女が自分だと思っているものの方が、幻なんです」
「幻?」
「ここにいるわけでなない。ただ、ここにいると思っているだけ。思い込んでいるだけ。影が映し出されるのと同じこと」
引用元:森博嗣著「イデアの影」 中央公論新社 108p,109p
まさしくイデアの影、というところか。ちなみにぼくは森博嗣の思想や作品は好きだけど、彼の詩的表現は正直好きじゃない。(完全にぼく個人の好み)
他にもデカルトの心身二元論やコギトエルゴスム(我思う故に我あり)、ソシュールのシニフィアン・シニフィエをぼんやりと表現している箇所もある。
それは、きっと言葉にはできる。しかし、その言葉で納得することはできない。理由というものの限界がそこにある。
引用元:森博嗣著「イデアの影」 中央公論新社 143p
そういえば本著はデビュー作と比べると、だいぶ詩的になったと思う。
これは森博嗣本人の変化だろうか。それともあえてこうしているのだろうか。いや程度の差はあれど両方か。
ただなにか「すべてはFになる」から一貫している森博嗣の死生観のようなものが投影されている感じを受けた。
「現実って、何?」
「夢でないもの。本当に起こっているもの。この躰が実際にいるところ」
「ここは?」
「え?」
彼女は少し考えた。
ここは現実だろうか?
たしかに躰がここに存在している。でも、夢の中だって、躰がないわけではない。存在していることは、どんなふうに証明できるのだろう。ただ、ここにいると感じているだけかもしれない。それでは、本当に存在しているのか、それとも存在していないのか、わからないではないか。
引用元:森博嗣著「イデアの影」 中央公論新社 216p
現実と夢の違いは実際に起こっているのか、そうでないか。
これはつまり、現実か夢かを自身では判断できないという意味になる。
「自分が今見ているものが本物だと思うのは勝手だが、それを確認することができない以上現実問題、夢も現実も想像上の概念の範囲を出ない」という話。
ここらへんはデカルトがかの有名なコギトエルゴスムでその反証を試みて一時期市民権を得た。
が後にニーチェから痛いところを突かれ、彼の「我思う故に我あり」はほぼ空論扱いに。今のところぼくらが映画マトリックスよろしくプラグで繋がれて夢を見ているだけだということを強く否定してくれるものは見当たらない。
それと読み終わってから気づいたけど、この本は谷崎潤一郎没後50年記念作品とのことらしい。森博嗣は本著の背表紙で「作品数でいえば最も多く僕が読んだ日本人作家の一人」と言っている。
でも残念ながらぼくは彼の作品を1,2作しか読んだことがない(と思う)。
ただ読み終わった後のざっくりとした感想としては、けっこう面白かった。
ちなみにこの本を読んで一番印象に残っているのは
死の理由は生なのだ。
というセリフ。
相変わらずうまいこと言うな―と思った。気に入ったので今後スキを見て日常会話に織り交ぜていこうと思う。