物知りが死んだ
2016/06/23
「物知り」という言葉を最後に聞いたのはいつだったろう。
今はパナマ文書のような超上流階級層がなんとしても隠したい極秘資料に1クリックでアクセスできる。
どんなニッチな専門知識でもインターネット上にアーカイブされている。
世界の叡智が結集するハーバード大学の授業ですら無料公開されていて誰でも見ることができる。
現代に生きるぼくらの知識は絶対量で言えば間違いなく伸びているはずだ。一昔の人からすれば目まぐるしいほどに。
だが相対的な差はなくなった。
Googleのミッションである「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」は達成されつつあり、知識の獲得はすでに誇るべきアドバンテージではなくなっている。
情報はノータイムゼロコストで全世界に公開され、知るつもりであればいつでも知れるからである。
ぼくが知れることは彼も知れる。彼が知れないことはぼくも知れない。
デジタルデバイドはほぼ0になり、言葉自体死語レベルだ。
今後この流れが進むことはあっても戻ることはないだろう。
ギャップ(情報格差)が発生しなくなるわけではないけど、それもすぐに埋まって跡形もなくなる。
そんな世にあって「物知り」というのはもはや幻想でしかない。ニーチェよろしく、物知りは死んだ。もし仮にまだそんなものが存在するとすればそれは人間ではないのだろう。
だがアインシュタインはこう言った。
調べられるものを、いちいち覚える必要などない。
ぼくらが行うべきは獲得でなく、創造である。