ぼくらの研究

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状況を議論せず思想だけを議論する無意味さ

      2016/03/17

止まるべきか、左に進むべきか、右に進むべきか。

 

これは「状況」による。ある一つの方向がどんな時でも正しいなんていうことはまずない。裏を返せば「状況」が分かっていない中では判断のしようがない。

 

だから具体的な問題のほとんどでまず議論すべきは思想よりも状況である。
にもかかわらず、今政治的な場で声高らかに主張されている内容を聞くと、どちら側も状況の吟味を怠っていて、かつそれでいいと思っている。大事なのは思想であって状況は問題ではないと思っているかのようだ。

 

議論のすえにより良い答えを導こうとするのではなく、単純なポジショントークの応酬。

 

相手の理解を得ようと思ったり、より正しい判断をしたいと思えば、相手の議論に耳を塞ぎ、自分達の言葉の多さで封殺しようというのは全く合理的な判断ではない。

 

ぼくの好きな作家の一人である森博嗣さんの言葉にこんなものがある。

自分と反対の意見に耳を塞ぐというのは、よほど自分の意見に自信が持てないのだろう。

 

 

それは狂気か怠惰のどちらかだ。(どちらも思考停止の一種という点では同じだが)

 

「理屈などどうでいい。この感情こそが全てだ。」というのであれば、反論の余地はない(反論は文字通り”論”だからだ)。だが感情のみに任せて行動すればするほど、望む環境からは遠ざかりその感情自体が害されやすくなるというのも当然の帰結である。

 

 

ただ、全てを理解した上で、他人からの理解を諦め暴力的に進めた方がいいと判断してあえてそうしている場合もなきにしもあらず。その場合は相手の声を封殺するのは例外的に非常に合理的な判断となる。でも最後に個人的な好みを言っちゃうとそれはあまり好きな手法じゃないかな。悲しいから。

 

という雑記。