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土屋賢二「幸不幸の分かれ道」を読んだ感想

      2016/08/01

幸・不幸の分かれ道

森博嗣さんが著書本質を見通す100の講義の中で土屋さんのエッセイを「尋常ならざる理性によって書かれた」と言っていたので、これは読むしかないと思って読んでみた。

ちなみに一応感想という体をとっているが、メモ書きのようなものである。ようなものであるというかまぁメモ書きである。そんな自分の備忘録として書いている軽さも相まって、当然この記事単体を読んでも原著を読むよりは学びは少ない。
また土屋賢二節というか土屋さん独特のユーモアのある言い回しとはこの記事では(文章量が引用の範囲を超えるという意味で)紹介できないのであれが好きな方もやはり原著で読むしかない。あしからず。

 

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だが幸福な人は不幸から逃れる方法を考える必要はない。自分が幸福かどうかさえ考えないし、幸福になる方法も説明できないだろう。ちょうど、ふつうの人に「どうやって歩いているんですか?歩く秘訣は何ですか?」と聞くようなもので、答えようがない。

引用元:土屋賢二著 「幸不幸の分かれ道 考え違いとユーモア」 6pより

序章でも言及されてるけど、この本はどんなことでも疑いの余地があるという例をいくつも明示することによって「なんで◯◯は△△じゃないんだ……」みたいに思い込んで不幸に陥らないようにしよう、それで幸福になれるかどうかは保証できないけど不幸から脱する手助けにはなるかもしれないよ、という感じの本になっている。

つまり思い込みから自由になることを目指した本である。

ふつう決定的とも思える事柄の不確かさを的確に突いている。普段無意識的に盲目的に信じてしまっているもの、盲点によく気付かされる。

この世界(と人間)の不確かさを再認識させられる一冊。疑いの余地があるからといってそれを否定することにはならないのは言うまでもないことだけど

 

もちろんこの本の内容を「何でも疑いの余地がある」の一言で全部要約できるわけじゃない。他にもいろんな気付きがある。それも物事の捉え方の根幹にかかわるけっこう大事なことが。

つまり、何らかの事実から「~すべきだ」「~しなくてはならない」という結論を導くことはできないんです。「これこれの事実が成り立っている」ということから、「これこれのことをすべきだ」「これこれしなくてはならない」という結論は出てきません。

引用元:土屋賢二著 「幸不幸の分かれ道 考え違いとユーモア」 55pより

これは目からウロコという感じ。厳密に追いかけていくとつまり「~すべきだ」「~しなくてはならない」という指針みたいなものは論理以外のもので決まっている、論理的帰結ではそれを定めることはできないということだろうか。(余談だけど汎用人工知能の壁も完全にここだよなぁ)

論理的な問題は論理的な回答で完全に決着がつく。という旨の説明の後、

でも、「~すべきなのか、すべきでないのか」について対立があったとき、そのようなはっきり決着をつけることができるんでしょうか。実際問題として、ほとんどの場合、決着がつきません。どんな理由を示しても決定的な主張にはならないし、有無をいわさず相手を屈服させることはできません。それが現実です。

引用元:土屋賢二著 「幸不幸の分かれ道 考え違いとユーモア」 72pより

というのもあった。たしかに価値観(ルール)の問題、「~するべき」というところまでいくと、さっきの言及にあるようにその部分はいくら事実を積み重ねても導き出せない。

これらの争いは、「どう行動すべきか」というルールをめぐる争いです。争いの双方が同じルールを共有し、事実関係の認識が一致していれば、解決は簡単です。でも、ふつうはルールか事実認識かどちらかが対立しています。

引用元:土屋賢二著 「幸不幸の分かれ道 考え違いとユーモア」 75pより

争いは「ルール(価値観)」と「事実関係の認識」のどちらかが対立していることによって起こる、と。
こうやって2つに分けるのは分かりやすい。

事実関係の認識は頑張っていけばそのうち一致するのでそこまで難しい問題じゃない。でもルール(価値観)の方は難しい。さっき触れたように「~すべき」という価値観の是非は論理的につまり明瞭に決着のつくものではないからだ。

もちろん「決着がつかないから、絶対的な価値観の基準が分からないから、絶対的普遍的な価値観は存在しない」としてしまうのは悪魔のなんとか的な暴論。よく見かける「分かんねーから無いってことなんじゃね?」的な知的怠慢だ。

まぁ絶対解決できるということにもならないのだけど、頑張っていくとぼんやりとちょっとずつ手がかりのようなものが見えてくるかもしれないじゃないかと個人的には一応淡い期待を持っている。原始時代から今日までの発展は仮定を積み重ねてきたからの結果なわけだし。

それにそういう完全に合理的じゃないところもおもしろみがあって、遊びがあって、自由があっていいと思うけどなぁ。

 

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話が逸れたので本の内容に戻る。

本著の説明のなかには少し荒かったり、もしくは説明そのものがなかったりしてちょっと引っかかるものもあった。

特にアリストテレスの2種類の行動に関しては原著(ニコマコス倫理学とか)を読んだほうが腑に落ちやすい気がする。言葉は簡単なんだけど詳細を省いてるから逆に分かりにくくなっているような……。根幹の大事な話をしてるわりに、アリストテレスほど厳密じゃなくてざっくりと荒く説明しているのでどうも引っかかる感じが否めない。

細かいところを話すとこういう話が苦手な人がめんどくさくなって離れるって考えたのかもしれないけど、これだとぼくみたいな人は細かいところとか厳密な根拠とかが気になってしまう……。ここらへんはトレードオフなのか。

 

結局、どこで尊敬できるかできないかが決まるのかというと、自分を大事にするかしないかだとぼくには思えます。この場合、「自分を大事にする」というのはどういうことでしょうか。「自分を大事にする」というときの「自分」というのは結局、自分の感情や欲望です。自分を大事にするとは、自分の感情や欲望を何よりも優先するということです。感情や欲望を優先するか抑えるかという違いが尊敬されるかどうかの分かれ目になっていると思います。

引用元:土屋賢二著 「幸不幸の分かれ道 考え違いとユーモア」 141、142pより

ここは人がその人を評価するもの普遍的な基準をうまく表現している気がする。

 

人間は一面的になりやすいんですけど、とくに「自分の欠点」とか「自分の不幸」が問題になると、ある一面だけを取り出してそれを拡大する傾向があるように思えます。

引用元:土屋賢二著 「幸不幸の分かれ道 考え違いとユーモア」 160pより

この本で繰り返し言及している「一面だけを見るな」の1例。

重大だと思っていることを、視点を変えて「大したことではない」と見るのは難しいことです。
でも過度に重大視することが不幸に拍車をかけているのはたしかです。

引用元:土屋賢二著 「幸不幸の分かれ道 考え違いとユーモア」 164pより

メモ。

土屋さんはこの本の中でこれでもかというくらい自虐をしている。ぼくは過度に思ったけど……好みかな。それこそ土屋さんのユーモアの部分らしいので

最後の方でこの「自分の不幸を笑う」という話も出てくる。たしかにぼくも自分の不幸なところも大っぴらにしている人をみると好印象を受けるなぁ。
自分もそういう見栄みたいなのを気にしなくなると幸せになれる気もする……まぁ限度はあると思うけど。なんでもかんでも捨てればいいというわけではないだろうし。それこそ中庸は難しい。

 

以上がこの本を読んでのぼくの感想だが、土屋さんにならえばこれら全て疑いの余地のあるものである。

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