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いつも言葉は嘘を孕んでいる

      2016/06/09

ソシュール以来の言語学の大前提をなんとも詩的に表現している椎名林檎女史の名言である。(「ありあまる富」という曲に出てくる歌詞だ。ちなみにこの曲の歌詞は全小節パンチライン)

 

言葉にはいつも嘘が含まれている。

 

例えば、あなたが「リンゴ」と言ったとしよう。

木に実っている赤々としたものだろうか。まだ青いものだろうか。かじりかけだろうか。皮をむいて12等分に切り分けられ、皿に盛られたものだろうか。青森県産だろうか。実家のおばあちゃんがとってくれたものだろうか。どういう匂いがするのだろうか。どれくらいの硬さだろか。

例えば、あなたが「彼女」と言ったとしよう。

大学から付き合っている黒髪メガネショートボブの来週記念日を迎える彼女のかわいらしい笑顔だろうか。それとも数ヶ月前に仕事上の人間関係で悩んでいると2時間ずっと愚痴られたストレスだろうか。それとも高校時代に半年だけ付き合った初恋の思い出だろうか。

 

しかしそういったどこまでも続くようなイメージとは裏腹に、言葉にした瞬間それは99.9%の情報が削られた記号に変わる。

自分の頭にあるものを言葉として形づくるまでの間に、自分の言葉が相手の耳に届くまでの間に、それまでの広々とした色彩豊かなイメージは失われてしまう。言語とは切り取りなのだ。

水という言葉が指すのはふつうのあの「水」。彼女という言葉が指すのは辞書一般的な意味での「彼女」。

元のイメージからすればもはや形骸とも思える代物だ。しかしそれが言葉の性質である。

相手があなたに近い人間ならたった1つの言葉にも背景や文脈などいろんな情報を付け加えて意味を補完してくれるだろうが、どう頑張っても元々あなたが思い描いていたものにはならない。

「言葉にならない想い」という言葉があるが、言葉になる想いなどそもそも存在しないのだ。

シニフィアンとシニフィエ。言葉である限りこれは宿命と言っていい。

それでもなるべく実際のイメージに近づけるために人は「いやこの前六甲山の麓で汲んできた水がね、すごくおいしくてさ。水の温度は3度くらいだと思うんだけど。あ、この前っていうのは6月6日ね。味はそうだな……evianをもう少し軟水よりにした感じで」と言葉を尽くす。

が近づくだけだ。やはりそれそのものにはならない。目の前にあるたったコップ一杯の水の表現ですら何千ページと語り尽くしても「んーちょっと違うんだよなぁ」と言えてしまうのだから。

 

それでも忘れてはいけない。

言いたいこと全部を表現してはくれない、常に嘘を孕んでいるこの言葉という記号があるからこそ、ぼくらはまがいなりにも共通の物差しを持てるのだということを。

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